
from 杉本
アメリカのテキサス州に住む、
デビッド・ヒクソン氏の経験を、
ご紹介します。
彼が16歳のときのことです。
買って来たロックのアルバムを、
初めてかけてみたところ、
最後の歌に、
とても下品な言葉が出て来て、
がっかりしました。
自分の家族の標準からは、
随分はずれていたからです。
しかし、それ以外の歌は好きだったので、
その歌のときになると、
下品な言葉の手前で、
ボリュームを下げて、
聞いていたのだそうです。
お父さんがそれを知って、
「その不適切な言葉に、
心配をしている」
と言いました。
彼は、
いろいろな言い訳をしましたが、
お父さんは、
それを処分するように言いました。
彼はその言葉に怒って、
自分の部屋に入って、
ベッドに身を投げ出しました。
10分後に、
ノックをして、
お父さんが部屋に入ってきました。
お父さんは、
「怒ってしまって済まなかった。
許して欲しい」と言い、
自分がどんなに彼を愛しているか、
どんなに大切に思っているかを話して、
静かに部屋から出て行きました。
彼は、「謙遜」について、
千の説教をされたとしても、
これほど強い影響を、
受けることはなかったと、
言っています。
お父さんが、
たとえ自分の主張が正しいとしても、
自分のプライドよりも、
彼との関係の方を、
大切にしていることが、
良く分かったのです。
「あやまる」のは、
人間に取って、
なかなか簡単なことではありません。
「あやまる」という行為は、
「私はあなたのことを、
一人の人間として尊重していますよ」
というメッセージでもあります。
自分の非を認める勇気、
自分の正しさを手放す勇気、
が必要なのです。
その勇気の原動力になるのは、
「相手の受けた痛みを、
少しでもやわらげてあげたい」
という愛だと思います。
「あやまる」という行為は、
自分をいやして、
相手もいやす力が、
あるのだと思います。
私には、
まだまだ「あやまる」ことが、
難しいときがありますが、
心から、それを見習おうと、
決心しました。
育自コンサルタント
−自分を育てるお手伝い−
杉本恵洋(すぎもと しげひろ)
PS:
「あやまる」ためには
まず自分を許すことが必要です。
そのためにはこのプログラムが役に立つかもしれません。
http://www.0stresslife.com/zrl/
いつもありがとうございます。
あやまることが出来る人は一流だと思います。
僕は全然できていませんが、少しでも見習いたいと思います。
涙がでました。私も娘の不安に耐えきれず、彼女の要求に応えられず彼女を傷つけてしまった時、直ぐに謝れませんでした。でも、あの子の胸のうちを思うと、一番苦しいのはあの子だと思い、素直に謝りました。私はスッキリしたし、あの子の声も明るくなったのがわかりました。
子供に力ずくで叱ることがある。
でも、間違ったときは、ちゃんと謝らなければ.
素晴らしい 謝ることは 愛 !!。
肝に銘じ 勇気を持って人選いたします。
何かまちがいをしてしまったときに何とか言い訳をしようと考えてしまうことがよくある。反省です。
謝ることは相手を一人の人間として尊敬していると示すこと、という考え方は今までの自分にはありませんでした。なんとも美しい考え方ですね。
ニュースで見る女子柔道界の体罰問題!!
これも今日の杉本さんのレターに近いのではないでしょうか?
『オリンピックで勝つため』に抜擢されたコーチは、
勝つための柔道のみにフォーカスして、体罰に向かったのかな?
『相手を思いやる愛や言葉』があれば、
体罰は訴えられなかったと思います。
『愛の深さ』『言葉の深さ』ってどうしたら相手に伝わるのでしょう。
とてもとても難しく深いものだと思います。
コーチは引退というだけでなく
選手たちに、『心をこめて謝る』ことをしてほしいなと思います。
身体の傷はいつか癒せるかもしれませんが、
心の傷は、なかなか治るものではありません。
選手の方たちは、
こんな時にモルツ博士のオーディオを聴くと
立ち直れるかもしれないですね。
感動しました。私個人の身勝手かもしれませんが、相手に謝罪できない人をどうしても好きにはなれないんです。たった一言「ごめんなさい」が言えない。「ありがとう」と「ごめんなさい」は人として最低限の言葉だと思っているからです。もちろん実践するのが難しいのは判りますが、小学校で教えられることをできない大人がとても多い気がします。
自分の父親がこんな素敵な姿勢を持った人だったら、成長過程における自分の人格形成もずいぶんちがっていただろうなー、とつくづく思います。
同時に、今の自分の人格は自己責任であり、父親からは学べなかったことを自ら軌道修正していく責任と決意を新たにしました。
いつも心の奥に響く杉本さんのお話に感謝しています。
帰国して以来笑顔になるのが減りました。その理由は日本社会で基本的なことだと私が思ってきたことが無くなっていることです。おはよう、こんにちわ、ありがとう、そしてごめんなさい。全く知らないもの同士なら一歩会社を出ると知らんふりです。
英語圏でTHANK YOU、SORRYなどがとても軽薄に聞こえていましたし、日本語の重みを其の当時は誇りに思っていたのです。しかし日本語で聞けないことに哀しくなりました。英語圏では少なくとも知らないもの同士でしている基本的な行為です。知らないもの同士でもありがとうといわれたらありがとうと返すべきですし、自分が悪いと感じたらごめんなさい、すみませんなど自ら言うべきだと思うのは私だけでしょうか?謝ることは本当に難しいと思います。身内でも親友でも状況は同じです。たった一言でお互いの距離がもっと近づくし、印象も代わります。
偶然にも其のとき自分が抱えている問題に関連するメッセージが届くことにいつも驚かされます。まなぶことがたくさんあります。毎朝舞い込むメッセージの中で杉本 恵洋氏のメッセージが大好きです。いつも心待ちしてます。ありがとうございます、杉本 恵洋氏
みなさんはいかがですか?
難しい。
誠意を持って謝るのは、自分にはしやすい事なのです。些細なことで関係が疎遠になったり、ギクシャクしたくも無い。ましてや相手が傷ついて悲しんだりとか後味の良いものではないです。
ただ、内容によっては注意を与えておかないといけないと思うものもあるんです。それに人間が甘くなり過ぎる事も無いのかという意識もあるのです。実際のところ、先月そんな事象があったばかりで、最悪の事態はまぬがれたものの、互いに客観的に事象について見つめて話し合ったりとか自分は出来たらいいなと思うのですが、敬遠されると思うと踏み込めません。このまま放っておいて時間が解決してくれるのを待つのか、触れずに忘れてしまった方が良いのか…。そういうところが難しいと感じています(^_^;)
杉本さんは何時もいいこと書くなー。「あやまる」って確かに凄く大切なことですね。
電車内でもよくトラブルが起きますけど満員電車で降りるときでも一言「すみません。」と
言えばほとんどの人が協力的に動いてくれます。何も言わないでただ強制的に「俺は
降りるんだよ!どけっ!」といわないまでも体の動きから言っているような人だと逆に意地に
なって動かなくなる人もいます。ただの一言なのに。
>「あやまる」ためにはまず自分を許すことが必要です。
これは、失敗をした自分、他人を責めた自分を許すということでしょうか?
自分が謝れない時、それは、多分、自分の言動に論理性、一貫性、妥当性を感じ、相手の言動にはそれを感じないプラス何らかの卑怯さがある場合です。もちろん、「言い方は悪かったかも」と謝ることはできますが、そうすれば、多くの凡人は、それにこだわり、「そうだろう!おまえが悪いんだ!」と焦点をそらし、自己正当化をします。自分の受けた痛みだけ過大に考えます。
心が豊かなることは大切ですが、現実的にはどうなのだろうかなあと思います。
現在のアジア近隣諸国との問題でも、日本は過去になんとも謝罪表明をし、ODAなど政治的、経済的な形でも謝罪をしていると思います。ところが、相手はエスカレートするばかりで、「謝罪してない(事実を知らない)」「あれは謝罪ではない、言葉だけだ(ODAその他の援助のことを知らない)」、「もっと謝罪しろ(ODAの打ち切りは許さん)」といった具合です。上の例で謝罪が効果をなしたのは、親子間に信頼があったからではないでしょうか。