初詣

吉永賢一

吉永賢一です。

今年の初詣は、ぼくの人生で
最大規模でした(笑)

もう既に、人生がかなりうまく
いっていると感じていますので、
その感謝にあちこちまわってきました。

メルマガなどで公開するのは
はじめてかもしれませんが、
ぼくの「賢一」という名前は、
親がつけたものではありません。

前橋の八幡様から
いただいたものです。

こういうご縁がありますので、
ほぼ毎年、前橋の八幡様にも
お参りに行っています。

子供の頃は、「賢一」という名前は、
実は傲慢な感じがしてイヤでした。

(そして同時に、誇らしくも思っていました。)

このようなぼくの気持ちが反映されたのか、

「お前は一番頭が良いのかと
思っているのかよ!」

といじめられたりしました。

その頃、テストの点数は一番でした。

それで、イヤになって、
テストの点は取らなくなったりしました。

他者からの影響を受けていますね。
そういう弱さを存分に持っていました。

中学のときだと思いますが、
それまで塾に行っていなかったので、
親に頼んで塾に行き始めました。

クラス分けテストでつい点を
取ってしまって、最上位クラスに入ったら、

「お前生意気なんだよ。
俺なんか○年行っていても
○○クラスだぜ。ふざけるなよ」

という名目でいじめられました。

いじめられただけだったら
やめなかったと思いますが、
授業の内容に十分に納得できず、

「授業費で本を買った方がトクだ」

と判断してやめることにしました。

親には、「入塾金を払ったのに、
1ヶ月でやめるの?」と言われましたが、
サンクコストを取りに行くのは間違いだ
という知識があったので、
「うん、やめる、ごめんね」と言いました。

いじめられたことや、サンクコストの
ことは言いませんでした。

聖書を読んでいたときは、

「神社から名前をもらった僕は
異教徒なのか?」
「そもそも、神社にお参りに行くとか、
神への冒涜なのか?」

と考えたりもしました。

やはり、聖書には洗脳的な
効果もあります。
そういう意味でも、ものすごい本です。

これらのことは、
周囲の人に聞いても全く仕方がない
話題だったので、
ぼくは、そういう関係の本も読む
ことになりました。

このような「周囲の人の配置」
が与えられていたことも、
「導き」だったのだと思い、感謝しています。

ぼくは、バリバリの排他的な
神社派っていうわけじゃなくて、
お寺も行くし、教会だって素敵だと思うし、
仏典も読むし、聖書も読みます。

坐禅だってするわけです。
八正道も気にしています。
お念仏もお称えします。

渡米したときに、プロテスタントの
マニアックな人と、
聖書の解釈について、単語レベルで
議論したりするのも
とても楽しみにしています。

イタリアに行ったら、
洗礼を受けるかもしれません。
(許されるかはわかりませんが。)

いずれ中東にも行くと思いますが、
そうしたら、イスラムになるかもしれません。

入信の儀式自体はカンタンだからです。
ただ、その際に「従来の宗教を捨てる」
などの条件があれば、
入らないかもしれません。

(八正道の考え方は、ぼくの各種ノウハウや
カリキュラムのモデルとなっています。
「もれなく、ダブりなく、順番に」です。
八正道と四諦という2方面からの叙述も
モデルになっています。)

そして、そんなスタンスが
「今の日本の宗教」って思って、
そのおおらかさに、赤城山に
手を合わせたりしていました(自然崇拝)

さらに、心理学や精神分析学の
知識も活用しています。

なんかめちゃくちゃな感じですが、
そういう感じが良い感じの
土地なのだと感じています。

でも、さすがに雑多すぎる
感じもするので、もう少ししたら、
もっとすっきりさせて、もっとシンプルに
する可能性はあります。

「雑多」と言っても「なんでもかんでも」
ではなくて、排斥しているものもあるからです。

おもしろいのは、宗教や心のことは、
ぼくは今のところ、このように雑多ですが、
食べ物はローフーダーなので、
あんまり雑多ではありません。

いろいろ幅広く本を読むので、
こういうところでバランスを取っている
可能性はあります。

(ちなみに、男性でとても
多く浮気をする人は、発想の幅がとても
狭い傾向があるように思います。)

小さい頃、ぼくの最大のお願いは
なんだろうと考えました。

・目標達成能力をください
・頭が良くなりたいです

前者も、少し願いました。
でも、前者は、ちょっと悪魔的だと
考え直しました。

そこで、後者を中心にお願いして、
ぼくは東大理IIIに入りました。

その後も、いただいた才能のおかげで
生きています。

ぼくが生き抜いているのは、
明らかに才能のおかげであって、
そうでなければ、途中で破綻しているような
ムチャな生き方をしています。

だから、ただただ感謝なのです。

ちなみに、前者の願いが悪魔的なのは、
傲慢さや、エゴが増大することを
感じたからです。

そこで、現在では、ぼくは「目標達成」
ではなく、

“ぼくがこの日本の地に生まれた意味を
果たしたいです。
お力をお貸しください。強めてください。”

のような感じでお願いしています。

知り合いのことをお願いするときも、

“○○さんが、この日本の地に
生まれた意味を果たせますように。
○○さんが、自らの使命を果たす上で役に立つ、
肉体の力、神様のお導き、
心の充実、知性の充実、
たましいのエネルギーの充実などをください。
そして、○○さんがしあわせになって、
周囲の人に感謝され、自らの使命に
目覚めてゆくことを助けてあげてください。
どうかどうかお願いします”

のような感じでお願いをします。

(他にもありますが、そのあたりは、
今のところ非公開です。)

今は、こういう感じのお願いの仕方に
落ちついてきていますが、当初は、
どうやって願ったらいいのかも
わかりませんでした。

なぜなら、神社には、「2礼2拍1礼」
という形式のお札が
立っているだけだったりするからです。

小さい頃、「こんなの形式主義だ!」と
反発を覚えたこともあります。

でも今は、形式がある大切さを
体験するようになりました。

この形式のポイントは「実行可能」
であるということです。

神様をバカにしている人は、
ここまで低コストの形式でも
やりません。

ぼくは神社を回っているので、
神社をバカにする人たちが
たくさんいるのを知っています。

初詣のときも、

・「初詣なんか意味ないよ」と
言っている人を聞きました。
これは、
ひとりではありません。
数カ所で、数人以上から聞きました

・お賽銭箱のまえで、
ご神体の方に向かって「ブー」と
バカにする声を出す人を
見て、聞きました

・「神社に来ると、お賽銭箱がたくさん
あるから貧乏になる」と言っている人を
聞き、見ました。家族にこぼしていました。
おそらく、一家のお父さんです

よく考えてほしいのです。

バカにするなら、来なければ
良いと思いませんか?

現在の日本は、国家神道
ではありません。

信教の自由が認められている
先進国家です。

それはさておき、お願いの仕方が
わかりませんでしたので、
初期には、

「お願いの仕方を教えてください。
ぼくの心の中に、明らかにして
いってください。お願いします」

ということをお願いしていました。

そして、何年もしているうちに、
気がついたら、自分なりの形式が
できあがってきていました。

お賽銭については、それで本当に
貧乏になる人がいたらイヤなので、
「各自の責任で」ということを前置きして
から言いますが、
ぼくは明らかに、「世間の人よりは」
たくさん入れています。

以前は、本郷に住んでいましたので、
生徒の合格祈願は、湯島天神に
行っていました。

1年貯めた小銭を入れましたので、

「じゃらじゃらじゃらじゃら
じゃらじゃらじゃらー」

という感じで、「注ぐ」時間があるくらい
入れます。

ただ、金額ベースで言えば、
御神輿などを作るときに寄付している
企業などはお金の単位が違うので、
ぼくが貯めた小銭の額よりは
はるかに多いです。

それでも、
このレベルで小銭を貯めると、
持ち運ぶだけで重いです。

ですので、湯島天神は
近所だったから良かったのですが、
今年の初詣は富士山やお伊勢さん、
出雲大社をまわりましたので、
たくさん小銭を持って行きませんでした。

その結果、現地では
「お賽銭持ってくれば良かった」と
思うことになりました。

そこで、外宮のそばのお店で
お賽銭箱を買って、玄関においてあります。

その日の外出の終了処理のひとつとして、
お財布に入っている小銭を
このお賽銭箱に入れようと思っています。

来年は、感謝を込めて、この小銭たちを
お賽銭箱につないでこようと思っています。

この小銭たちは、物質的なレベルで、
ぼくと接触があった人たちと接触しています。

だから、きっと、なにかその人たちに
良い効果が及ぼされやすいだろうと思い、
楽しみに貯めています。

銀行から降ろしたお札を両替した小銭とは、
意味が違います。

もちろん、それらの小銭も、
日本円の経済圏を循環してきたものですが、
ぼくとしては、ぼくと接触があった人を
優先するのが順序だと考えています。

そして、いつの間にか、
ぼくも「寄付」をいただくようになりました。

銀行口座が公開されているので、
寄付金を振り込んでくれる人がいます。

浄財だと思って、大切にしています。

きっと、無料メルマガの活動なども応援して
くださっている人だと思うので、
誰だかわかりませんが、感謝して、
今日もメルマガを書いています。

(お名前がわかっている人もいます。
お名前がわかっている人には、
お名前をわかった上で感謝しています。)

今年は、確定申告で収入がわかったら、
ぼくもはじめて「1割の寄付」を実践しようと
思っています。

これまで、ちょこちょこ寄付してきましたが、
システムとして、「収入の一割」のように
やってきたことはありません。

ですから、あくまでも「世間一般の人」
よりも多いというだけで、
寄付活動を人生の重要な営みと
している人からしたら、
本当にわずかなものです。

ぼくもようやく、「一割以上」の
仲間に入るつもりです。

その大きな後押しが、ぼくに寄付を
してくれた人たちだと思います。
ありがとうございます。

このようなぼくの生き方が、
ぼくが各種セミナーでお伝えしている

「本当にやりたいことをやって生きる」
「使命を果たす」
「個性というのは与えられたもの。
実は個人的なものではなく、
全体とつながっているもの」

という主張につながっているわけです。

ぼくのメルマガを読んでいる人は、
勉強法に関心がある人が多いわけですから、
知性の開発に関心があります。

なのですが、それを「机に向かって
する勉強」という手段に
限定してしまう人も多いです。

ぼくにとっては、
「机に向かってする勉強」は
むしろサブです。

外の景色を楽しみながら、
空気の温度を
風を感じながら散歩する。

こういうことも、重要な勉強法なのです。

皮膚からの刺激が、頭を良くするのです。

(ですから、この種の散歩をするときは、
厚着をしすぎてはいけません。
身体の皮膚が、外気を感じにくく
なるからです。)

昨年末、『真・勉強法』というセミナー
をしました。

「頭の使い方」というレベルでも、
多くの人は、サブ的な分野だけに
フォーカスして「勉強」していますので、
より基礎的な層にもアクセスできる
内容をお伝えしました。

知性よりも深い層に感情があり、
それより深い層に、仲間とのつながりがあり、
それより深い層に、たましい
(宗教的なこと)があり、
さらに深い層に、自らの身体があります。

このような階層のレベルを持って、
下ほど基盤であると考え、
下から取り組んでゆきます。

キリスト教の教会堂も、日本の神社も、
神様そのものではないですね。

教会堂は建物、教会は人の集まりです。

これを「人間」の比喩と考え、

教会堂に相当するものが肉体、
教会に相当するものが、無意識レベルに
生きているさまざまな主体要素、

こう捉えることで、「自分」のことが
わかりやすくなります。

教会堂があるから、人が集まる。
良い人の集まりの中で、神様のことを
考えると、感情が安定してくる。
安定した感情を基礎に、感謝しながら、
知性を開発してゆき、
皆に役立つ力を身につけてゆく。

さらに、ここに「フラクタル」の感覚を
入れることで、天を感じやすくなると、
ぼくは思っています。

同じように、身体を大切にし、
育てることで、自分の中の諸要素が快適に、
エネルギッシュに活動をはじめます。

(身体とご神体が「しんたい」という
共通する読みを持っていることも、
連想しやすくて助かります。)

「自分が自分の言うことを聞かない」

のは、本当は当たり前で、
同じ権威の要素同士では、
まとまりがつくはずがありません。

自我は肥大しやすいので、
「俺こそが俺」と思い、他の要素を
思い通りにしようとしますが、
そもそも、そんな権限は持っていないのです。

だから、使命が大切です。

使命のためであれば、
みんな納得して動けます。

ー吉永賢一

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4 thoughts on “初詣

  1. 洗礼について、「従来の宗教を捨てる」などの条件があれば、 入らないかもしれません」   とありましたが、自分が洗礼を受けた時の事を思い出しました
    それは、「洗礼を受けたとしても、他の宗教を蔑んではいけない」という 牧師先生の言葉でした。
    これは、今に至るまで強く心に残ってます。   これだ  と感動しました。
    信仰の自由とは、違うものを否定して成り立つものではないと、つくづく思います。
    究極のところ、全て違いを前提にしたうえで、自分の生き方を大切にする ことなんでしょうか。

  2. いつも読ませてもらった後は、
    とても気分が良くなります。
    どうして気分が良くなるのか、
    今日から考えてみます。
    ありがとうございます!

  3. 今日は、私が勝手にメンターとさせて頂いています、吉永先生のお言葉に出会えてとっても嬉しいです。
    去年の「真・勉強法」セミナー以来です。それからは自分の仕事を進めていく上での勉強に時間を取っているので、中々先生のお話を聞けませんでしたが、その時に録音をしたレコーダーは毎日聞いています。住吉大社参詣を日課にしていますが、その行き帰りに聞きながら、笑いをかみ殺して聞いています。そうでないと道行く人に変な目で見られますからネ。その時の先生のお話はとっても面白くて、その時も笑っているのは私一人でした。
    漫才師の素質がおありなんじゃないかと思って秘書の可愛い女性に聞いた位です。
    今日も気持ちが良くなったのは、知欲が満たされたからです。
    私は、欲どうしいので、何でも貰ったら嬉しいです。私の知らない事を今日も頂けました。
    「八正道」と「四諦」 「サンクコスト」「フラクタル」などです。
    恥ずかしながら知りませんでした。でも今日でまた一つ財産が増えました。
    仕事の為に時間を取っている身ですが、日課は欠かせません。
    机に向かうだけではなく、神社参詣からでも毎日沢山の事を学んでいます。
    ですが、私は無宗教です。
    先祖は自分の源なのでお墓参りはしています。それは次元が違うと捉えています。
    いつでも、何処でも感謝の気持ちは心の中に持っていますので、神社にしても、教会堂にしても、お墓にしても、実行可能なものとして捉えています。
    私も又宗教だけではなく、社会は色々な人の集まりで構成されているので、自分だけとか、他者を排除するのは間違っていると思っています。
    色々な宗教を認めて、色々な人の価値観を認めて、その上で自分は他者に振り回されずブレない自分を生きる事で成功と思っています。
    そして自分の価値観で自分の使命を果たしていきたいと思っています。
    私が生きていく上で、先生のお言葉は多大な影響があります。(他者に振り回されるのとは違います。)
    これからも宜しくお願い致します   ~感謝~

  4. お祈りの仕方がとても素晴らしいと感動しました!私も今日から真似したいと思います。私はまだまだ人生これからなので、「もうかなり人生うまくいっている」という感覚をまずは持てるようになりたいと思います。

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