もっと世界を良い場所にしたいのに

吉永賢一です。

「もっと世界を良い場所にしたいのに、
どうして、自分にはそういう力がないんだろう?」

と悩んでいる人も、多いと思います。

もちろん、世間には、
(おそらく心が曇らされているために)
そのような問題意識を持っていない人もいます。

しかし、ある程度の段階が回復されてくれば、
こういう心が出てくると思います。

その場合、ぼくは「勉強」をすすめています。

しかし、それが単なる立身出世の手段なのかと言えば、
やはり、そうではないと思っています。

もちろん、方便として、
そういう語り口でお伝えすることもありますが、
やはり、本当は、違うと思います。

より「本当」に近い話しをしようとすれば、

「立身出世というのは、むなしいことだ」

という内容になると思います。

しかし、そういう内容は、相手を選ばねばならず、
誰でもに話すならば、かえってやる気をくじくことにも
なってしまうわけです。

何かをお話しても、相手の解釈機構に基づいて
解釈されてしまう以上、

“合わせて”

お話をするしかありません。

そうすることで、話しの内容が(表面上)曲がり過ぎてしまい、
合わせて話すのがあまりにも不快であるならば、

「そういう人とは話さない」

という選択になると思います。

とは言え、先程も申し上げましたように、

「もっと世界を良くしたい、その為の一環として、
自分の存在があってほしい」

そう思えない人も多いわけです。

そしてそれは、ある意味、

「騙されている」

ような状態なのだと、ぼくは思っています。

では、ある意味「騙されている」
ような状態に入っているとき、
どうやって、そこから出たら良いのでしょうか?

基本的な方法は、良い影響を受けることです。

そして、良い影響を受けるための重要な手段が
勉強なのだと思います。

視界が開けてきて、
いろいろなことがよくわかるようになり、
自分で決められることが増えます。

同時に、自分の小ささもわかり、
感謝の気持ちも育つと思います。

しかし、敵もさるもので、
「勉強」も隠されていると思います。

人には、ちょっと聴いたことがあると、

「あ、それ知ってるよ」

と傲慢な心がはたらき
心が閉じる性質があります。

ですから、良い知識に触れる前に、

“似て非なる”

粗悪な知識を与えておけば、
その人が啓発されることがなくなってくると
期待されるのだと思います。

「あ、それ知ってる!」

となって、いろいろな入り口に対して、
心が閉じるからです。

ましてや、本来、人の心を高め、
解放するはずの勉強に、苦しい、
つまらないものとしての連想付けができれば、
ますます、知識から人を離すことができるでしょう。

そして、結局は勉強は、
私欲のためにお金を稼いだり、
人を苦しめ、使役したり、
だましたりするための手段になったりします。

そういう、この世界を見ると、
この世界に嫌悪感を覚える人がいることも、
とてもよくわかります。
(実際、ぼくも、よく嫌悪感を覚えてしまいます。)
(自分自身に嫌悪感を覚えることもあります。)

しかし、そのようなときに思うのは、

「この世界には、生きている人がいる」

ということです。

なぜか、この世界には“隠す”ようなはたらきがあり、
良い主張は、「似て非なる」ものにおおわれてしまいます。

そんな世界から逃げ出したい人が
いることはよくわかりますし、
失望して、死んでしまう人もいると思います。

あるいは、失望しながら死ぬ人もいると思います。

ぼくもこれまで、何度も失望したことがあります。

この世界にも失望しますし、
自分自身にも失望します。

そんなとき、ぼくを回復させたのは、

「現に、ぼくは生きている」

ということでした。

そして、

「この世界には、“生きている人”がいる」

ということでした。

そういう人がいるのだから、
きっと何かできることがあるだろうと、

そこに意味を見出すことができるのです。

しかし、自分の力の小ささに、
無力感が生じ、失望に落ち込むことがあります。

そんなときは、「自分の力」でやろうとしていた
傲慢さに気づきます。

繰り返されているパターンなので、
認識がしやすいです。

そうして、良い機会にできることで、
また気持ちが戻ってきます。

“生命の大切さ”

小さいときに習いましたが、その意味や、その実感は、
小さい頃の私には、ありませんでした。

しかし、現に私には生命が与えられ、
まわりの人も生きている。

小動物も生きている。

植物も生きています。

ところが、身体的形態が異なったり、種が異なると、

“生命”

とは言っても、「活動している」くらいの感じに見え、
ぼくの感覚には、その生命の心に尊いはたらきが
あるのかどうか、わかりません。

動いていることはわかったり、
何となく意志を感じたりはします。

でも、どんな意図があって、
どんな使命を感じているのか、よくわかりません。

それでも、人には、きっと良い心があるのだと思います。

人によっては、この一生の中で、
それが外側に出ることが、ほぼない人もいるかもしれません。

しかしそれでも、それは強く
「隠されている」だけで、きっと、
その中には、良い心が動こうとしている感じがします。

ぼくは、以前、
12時間セミナーというものをやりました。

そこでは、“ギフト”という概念を出しました。

「出した」と言っても、オリジナリティというよりは、
以前からある概念です。

「以前からある概念」は、世の中に多々あります。

その数え切れない程大量の概念のうち、

「この概念は、私たちの人生において、
大切なんですよ」

と主張したわけです。

生きてゆくうえで、「大切」な概念は、
たぶん、それほど数はないと思います。

その「大切」なものを「大切」と捉えたうえで、
その他のことも、学んでゆこうとすれば、
一生かけてもおわらないだけの、
いろいろな知識があります。

ぼくは、ぼくの使命を考えます。

もちろん、ギフトも考えます。

そして、今のぼくの生き方は、まだまだ不純であって、
ギフト(ぼくの中では“清い”感じ)の清らかさに
存分に、満たされ、守られているとは言えません。

つまり、自分の中の不純さによって、
自分が苦しめられている矛盾の中にいるわけです。

「やりたいこと」の中央にギフトを置けるか、
あるいは、さらに上位の目的を持つことができるかが、
今後、ますます大切になると思います。

“今後”というのは、日本がおかれている
時代の流れにおいてです。

ますます、方向性が見失われている時代になり、
各個人は、価値観をどうすればいいのか、
不安定な時代になると思います。

“多様”という場合は、ひとりひとりが価値観を持った上で、
その方向がバラバラな感じですが、

今後は、そもそも、ひとりひとりが価値観をさほど持てずに、
迷走するようになりそうです。

自分なりの価値観(足場)を得るために、
思想史の確認も、ますます大切になりそうです。

苦しさから抜けるには、
何かしらの「信じる」気持ちが必要です。

それが、自分をたぐり寄せます。

間違えたものを信じれば、
間違った方向に進みます。

そこに気づければ、方向を変更します。

「上はどこか? 上はどこか?」

以前、ぼくはよく自分に問うていました。

ここでの「上」というのは、天のような意味です。

ぼくは上にゆきたい。しかし、上はどっちなのか。

勘違いして、上に行こうとして、
実は下っているのではないか。

上はどっちなんだ?

そして、なんとなく、尊いような感じ。

そういう感じを、自分の中に覚えるとき。

そっちがきっと上なのだと思いましたが、
でも、それも誤解でないという保証はありません。

ところが、このせちがらい世の中で生き抜くときに、

そんなものでは生き抜けないだろうと思う。

そこから、弱さが生じて、
いろいろな悪しき思いが入ってきます。

なげやりになって、
もう、どうでもいいやと思う。

まずは、生き抜くために、
仕方がないと考えたりもする。

良くないとわかっていても、やってしまう。

ぼくは、そういうことをやりますし、
やってきたわけです。

すると、そういうところから自責が出て、
苦しくなるということを体験します。

記憶はトゲのようになり、
抜けない苦しさとなって、
自分を責めます。

そんな私たちは、生きにくさを感じながら、
生きているのだと思います。

「良い人では生きていけない」

そんなことが言われます。

その上、自分は、「良い人」とは言えない、
罪があるような性質の人である。

なおさら、ヘコみます。

そんな中、どうすれば良いのかと
考えて生きてきました。

そして、何とか苦しい状態から抜け出してゆくと、
(もちろん、今でも苦しさはありますが、
前よりもましな状態になってみると)

今、さみしい人や、つらい人、

そういう人に向けて伝えたいことをお伝えしてゆくのが、
ぼくの使命なのだろうと考えたりもします。

また、自分には、使命がある感じもするのに、
そんなものはないような感じもするし、
あったとしても、生き抜けないだろうと思う人が、
どう、この世界で生きてゆくのかについても。

それには、いろいろな形態があるでしょうし、
どっちにしても、生きている間にしかできません。

何かを伝えたいとしても、構想して、
作ってとやってゆくと、それなりに時間がかかり、

寿命を考えれば、やはり限界があります。

それで、つらくてさみしい状態から、
急に抜けられるかというと、

それも、違うので、その過程では、
ある種「信じる」気持ちが必要になります。

では、なぜ「信じる」ことができるのか。

それは、ほんとうに、たまたまなのだと思います。

そして、そこには、ひとりひとりの
ストーリーがあると思います。

ぼくにも、きっかけがあり、
20代における大きな方向変換のきっかけは、
ぼくにとっては、斎藤一人さんの本でした。

小さいときのきっかけは、また別の本です。

聖書関連の本に、大きな影響を受けたと思います。

そして、さらにその後は、
仏教の本に影響を受けました。

その後もいろいろ、いろいろなところから
影響を受けています。

哲学書にも影響を受けました。

心理学の本にも影響を受けました。

今も、いろいろなところから、
影響を受けていると思います。

考えてみれば、聖書だったり、仏典だったり、
その種のバックグラウンドが、
ぼくを守ってくれていたのだと思います。

ひとことで言えば、「尊さ」です。

尊さを求める方向性です。

固く固定化された教義というよりは、
尊さを尊重する気持ちです。

「尊さ」は、世間的な価値とは違います。

しかもおそらく、世間的な価値を奪うものでも
ありません。

むしろ、適切に歩めば、世間的な豊かさも
与えてくれるのではないかと思います。

ただし、そこを強調してしまえば、
尊さそのものが失われ、方向を間違えます。

何事も、すぐにはうまくゆかないので、
そこで、後戻りが起こることも、よくあることです。

長くなりました・・・

ただ、せっかくですので、もう少し書こうと思います。

疲れた方は、また後で、続きを読んでみてください。

では、「成功法則」について、少し書きます。
「ギフト」に関連したことです。

「私にできることは、何もありません」

と言う方がいます。

きっと、本当に苦しんできたのだと思います。

それで、そういう人にお伝えしたいことは、

「身近な人を、喜ばせようとする」

ということです。

ただし、とても厳しい環境にいる人の場合、
身近な人を喜ばせようとしても、
それが困難なくらいの

「すごい人たち」

に囲まれている場合があります。

身近に、そういう人たちしかいない場合です。

あなたに対して、あまりにも破壊的な人たちに
囲まれてしまっている場合です。

そういう場合は、
なんとか脱出することだと思います。

まずやることは、自尊心を高めることです。

そういう場に甘んじる必要がないという心を
持とうとしてください。

そこでは、戦いがあるかもしれませんが、
それも、くぐり抜けるしかないのだと思います。

何とか、脱出することを考えることが
大切だと思います。

ところが、それもできない人たちもいて、
そこは、ぼくには届かない世界であって、

たぶん、このメルマガも届かないでしょうから、
今のぼくにとってできることは、

「祈る」

くらいしかありません。

そして、多くの人は、
そこまで大変な環境にはいません。

すると、

「身近な人を喜ばせる」

ということは、可能であることが多いです。

ただ、問題なのは、

「そんなことをしても、何にもならない」

と感じるということです。

そして、ぼくは、これはワナだと思っています。

なぜ、

「そんなことをしても、何にもならない」

と感じてしまうのか。

それは、“成功”について、妙な価値観を
吹き込まれてしまっているからだと思います。

実際、ぼくもそうだったと思います。

ぼくの場合は、そこを修正されたきっかけが
斎藤一人さんの本だったわけです。

しかし、

「こんなことしても意味ない」

と思う理由が、

「成功したい、うまくゆきたい」

という気持ちなわけですから、

ここにワナがあるわけです。

ちょっとわかりにくいかもしれませんので、
もうちょっと、この部分について説明します。

なぜ、「ワナ」なのかということです。

「意味がない」

と思う。それは、なぜかと言えば、

「成功したい」

からです。

つまり、

「(身近な人を喜ばせても)自分の成功に寄与しない」

と思うわけです。

しかし、そここそが、

「成功の入り口」

だとしたら、どうでしょうか?

「成功したい」

という思い、その思いそのものによって、
成功への入り口が閉ざされてしまいます。

だからこそ、ワナです。

先程、脱出について言いました。

つまり、「身近な人」
にも、2種類いるわけです。

その人を喜ばせることが、
成功への入り口である人。

そうでない人。

この2種類です。

この判別は、

「あなたの自尊心が上がるか」

です。

ただ、「身近な人を喜ばせる」ことを、
ほんのちょっとやっても、
そもそも自尊心が上がらないことが多いです。

また、「喜ばせる」と言っても、
その人の悪しき欲を刺激し、
拡大させるなら、喜ばせる方向が違うと思います。

なので、

「身近な人を喜ばせよう」

と思って、そこそこ実践してみる。

しかも、「喜ばせる」方向は、
良いことでやってみようとしてみる。

ちょっとした親切などですね。

それで、自尊心が上がるかどうかを見てみます。

「自尊心」というのは、高慢さと違います。

しかし、人を助ければ、
高慢さも同時に出てしまうと思います。

ですから、高慢さが出ないことが大事なのではなく、
とりあえず、高慢さは脇に置いておいて、そこはともかくとして、

「(あなた自身の)自尊心が上がるか」

を見るのです。

そして、もうひとつ、
身近な人を喜ばせるときに大切なことは、

「卑屈にならない」

ことです。

卑屈になるのは、自尊心を下げることにつながります。

卑屈にならずして、喜ばせようと試みることが大切です。

そうすれば、いろいろと、

「できること」

があることに気づくと思います。

人によっては、

「喜ばせたくなるような身近な人」

を探すことも、アプローチになると思います。

そんな中から、

「勉強したいこと」

が出てきたりもします。

何かまとまらないような文章になりましたが、
何かを感じていただけたら、うれしいです。

あまり言葉に整理できなくても、
何かしらの「良い方向に進みそうな」方向性の
影響が感じられれば、それがうれしいです。

そして、もちろん・・・

あなたが喜ばせるべき、
まず第一の「身近な人」とは、
あなた自身です。

これは、「喜びましょう」という表現になります。

また、「人」でないなら、
神様や、他の「尊い主体」を考えた方が
良いと思います。

(自分以上に上位に置く。)

そういう主体に喜ばれようと考えてみます。

ただし、「尊い主体」を、
間違ったものに設定すれば、
ここでもまた、人生の方向が
間違ったものになってしまいます。

間違っているかどうかを、
自分で感じるための指標として、
ぼくが使っている言葉は、

「愛ある存在」

です。

愛ある存在であるかを問い、感じることで、
方向性を探ろうとしています。

ぼくが思うのは、あなたの中の

「尊さ」

を救い出してほしい。

良いと思うことをやってほしいということです。

それが、方向性が失われてゆく時代にあって、
あなたが時代に飲まれない方法だと思います。

その上で、あなたの中の悪しき思いや、
良くない感じの欲望もある程度受け入れて、
ちょっとずつ改善しようとしてゆく。

これくらいのバランスが、たぶん、
実行可能な道だと思うのです。

ー吉永賢一

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13 thoughts on “もっと世界を良い場所にしたいのに

  1. いつもより長かったんですが、
    読み進めることをやめられませんでした。
    ものすごく共感しました。
    よい心持ちで、まずは今日を前に進めます。
    本当にありがとうございます。

  2. …あなたが喜ばせるべき、
    まず第一の「身近な人」とは、
    あなた自身です。…

    とても嬉しい気持ちが溢れました。
    本当に、ありがとうございます。

  3. 本当に素晴らしい記事をありがとうございます!\(^o^)/感銘しました。

  4. 「もっと世界をよくしたい」そんなことを思っている人はどれくらいいるのか気になります。というのはほとんどいないのではないかと思うし、言ったら却って反感を買いそうだからです。吉永さんはたくさんいるだろうとお考えなのですね。私もそう思うことにします。まずは吉永さんがこのような記事を書いて下さって嬉しく思います。ありがとうございます。

  5. 吉永賢一先生、いつもありがとうございます。
    今回の記事は素晴らしかったです。
    自分自身の存在とこの世界の関係性。まだまだ勉強不足なのですが、とても共鳴しました。
    少々複雑な幼少期の体験と、20年来の鬱病で自分の生を止めようかと思った事もありました。
    ただ最近では「自分を見つめる」作業を真剣にやっており、家族、友人、会社、社会、出合う事のできる全ての「人間」との必然も感じています。
    自分が影響できることは高々知れていますが、記事中の「身近な人を喜ばす」ことから、やって行きたいと思います。「自分自身が喜ぶ。幸せに感じる」それは悪い事、許されない事と思って生きてきたブレーキを外そうと思います。
    有り難うございました。

  6. 吉永先生 いつもありがとうございます。
    今日のお話は、とても心にしみました。
    読みながら、涙があふれました。
    自分自身を愛し、身近な人を愛し、
    幸せになれるよう「勉強」します。
    ありがとうございます。
    感謝しています。

  7. 非常に崇高な内容を拝読させていただき感謝しました。
    これこそ私を含めた悩める方々への大いに意味ある提言と感じました。
    人間の成熟度は年齢とは関係ないものであると改めて知らされました。
    脱帽でした。

  8. 電車の中で偶然目にしたあなたのメール。心揺さぶられました。有難い出会いでした。

    つい最近、一番身近な人が急逝しました。

    一ヶ月が経ち、その死をやっと事実として受け入れられつつありますが、
    死という厳然たる事実の大きさに今更ながら圧倒されております。
    その人の数十年にわたる人間関係というシステム全体が、ブラックホールに吸い込まれた様な空しさも覚えます。

    そんな私を強力に支えてくれるのは、身近に「生きている人」たち!です。
    そして、多少とも自分の学んできたバックグラウンドにも支えられていると感じます。

    ガンディーの言葉も心を強くしてくれています。
    「死は、積み重ねてきた努力の終わりを意味するものではない。
    精一杯生きた人生は、その次のより良き人生を導く。」
    「亡くなった者にとって、そして残された者にとっても、
    死は新たな門出なのだ。」
    「人は微笑みで悲しみを乗り越える。」

    あなたのメールも心に響きました。
    「あなたが喜ばせるべき、まず第一の『身近な人』とはあなた自身です。」との言葉、噛みしめています。
    「尊い主体」を考える…
    「愛ある存在」…

    生きていくには本当にバランスが大事だとつくづく思います。

    あなたのメール、有難かったです!
    ありがとうございます。
    あなたとの出会いを感謝してます。

  9. 初めて投稿いたします。

    ”似て非なるもの”に満ちている。
    この言葉に安心を覚えました。

    吉永さんのお話は、いつも納得で楽しみにしていました。

    ”似て非なるもの”に満ちていると感じた時から、シンプルが人生のテーマになっていきました。

    そして今、「会いたい」と言ってくださる方が増えていき、お会いしてお話しできる範囲で勉強会を開いています。

    これが少しずつ広がっています。

    これからも、吉永さんのお話を楽しみにしています。

  10. 吉永さん、いつも為になるメッセージをいただき、感謝しています。今日のは、いつもよりもとても長く不思議な気持ちも抱きながら読み進みました。吉永さんの、”いのち”に対する強い、絶対的なまでの思いがつづられている、そう感じました。何より、尊さという価値観、そして、身近な人に感謝されるという、一見、地味ですが、とても大事な一歩、それを訴えてらっしゃるのかと。既にコメントを寄せられている方がお書きですが、一番身近な人、それは自分自身。だから、世の中が美しくなる、たとえ何かあっても自浄効果がある、そう期待して良い、そのように思いました。最近、ある方のウエブ教室と言う題名で、137億年の宇宙の歴史と、人類の創発という言葉を知り、人はそれぞれに繋がっている。人は誰も、星から生まれたのだという認識。そこに、人を陥れようとか、少々の失敗、いや大きな失敗をしたとしても、何も怖れることはない。宇宙は今も元素が動き、変化をしている。とても強い言葉に良い刺激を貰っています。今日の吉永さんのメッセージは、多分、そのような高次元の話を、誰にでも分かり易いように咀嚼して、書いていただいたのだろう、そう有難い気持ちで、拝聴しました。引き続き、世の中の為に、ご尽力されることを、祈願しています。ありがとうございます。

  11. 大切なこと、深いご自身の思いから来る言葉を、どうもありがとうございます。「世の中をよくしたい」と思う気持ちと、絶望と。自分の無力さや、自分のエゴや自分の尊くない感情に自己嫌悪を感じることもありますが、まだまだ、私には、やれることがあるのだと、そんな気持ちにさせられました。「まずは、身近な人を喜ばせること」というシンプルな方法から。。。それは、まずは、一番身近な自分自身が喜ぶことからというところに、救いもありました。いろいろなことを感じました。心の深い部分を揺さぶられました。ありがとうございました。

  12. いつも読ませて頂いておりますが、投稿は初めてです。
    今回のお話しは普段とは少し趣向が違い、私にはまるで自分の思いを読んでいる様な気にさえなる、最も引きつけられた、まとまらない文でした(^^)
    (私が塾と縁の無い家庭で育った事もあるかもしれませんが…^^;)
    日本は特にトリックの多い国に思えます。子供の頃からその様な環境で育てばトリックにかかっている自覚なく一生を終える人も多いと思います。勿論、本人がそれで幸せならそれも良いと思います。

    私は、陰湿で憎しみに溢れた家庭で育ち、またあるトラウマから、3歳で親に、大人に、日本社会を憎み失望し、自分しか信頼出来る者、守れる者は居ないと言う、ある種の深層心理の様なものが確立されてしまい、子供でも可能な自立は精神的自立だけだと、かなり自分に対し様々な面から律して来たのですが、ある事をきっかけに、自分すら信頼出来なくなり、自己嫌悪やそれまでの苦しみ怒りや我慢を頑張る事に疲れ果ててしまい、20年以上、自殺願望(消えたい願望)とうんざり感を引きずりながら生きて来ました。
    おそらく、死ねないのは、私はその瞬間瞬間を自分なりに精一杯やっている、悪い事もしていないと言う自尊心と、集団は苦手だか人(個人)は大好きだ、といった事からかと思います。

    かなり子供の頃から鬱化してきたとは思いますが(見かけが鬱病的で無いので理解を得られず苦しむところなのですが…^^;)、個人に幻滅する事はなく生きて来れたのがせめてもの救いです。

    最近強く思うのが、私は神でも仏でも無い。人間であり、唯一無二の自分だ、と言う事です。
    人間ですから、悩み苦しみ怒り葛藤し失敗し間違いを冒し、時には知らぬ間に誰かを傷付け後悔しますが、これらの体験を経験することは、人間ならではの成長の糧であり、他人の感情的反応や社会重視の常識に振り回されず、自分に意識を向け、この体験から己の感情にも囚われぬ様、自分にとって学びとなるものをいかに見出せるか、そしてその学びを、唯一無二の人間である自分を、より高め質の良い自分らしさに還元して行く事こそが、人生の醍醐味なのかもしれない、と思える余裕が出て来ました(常にとはいきませんが…人間ですから^^;)

    長くなってしまいましたが、幸せは全てを受け止め、尊重し、感謝し、自分を愛し、そこから愛する自分をより自分らしく高めて行く、この過程自体だと感じています。

    私事となってしまい申し訳御座いませんでしたが、吉永さんの今回の内容と人間味のある文に、思わずコメントせずにはいられませんでした。

    今後とも楽しみにしております。

    どうも有り難う御座いました。

  13. なんだか非常に共感しました。
    でも、「生きていること」が私にとっては歯止めにも希望にもなりません。
    加齢で人生への興味を無くしかけなのかもしれないし、欝やブラック企業での体験やその後の失職などで、ほとんど感動を感じなくなったのかもしれません。

    ええ、社会にでると、そこは「賢く」生きるところでした。嘘はつかないが、事実のすべてを言わないことで自分の有利にもっていくとか、陰で上の人とつながることで、知らぬうちにその人の計画が進んでいくとか。はっきりした悪じゃないけれど、なんだかなという感じでした。でも、それでやっていった人間は生き残れ、私は、病気になって仕事を失い、収入源を失い…病気が長引くと、自尊心も失い、身近なものを喜ばせるのは、私の再就職しかありません。(他のことはあるでしょうが、決定的ではない)しかし、難しそうです。ということは、私は、身近なものを喜ばせることもできません。自分を喜ばせることは、たとえば傷ついた猫、生まれたばかりで捨てられた猫の保護でした。しかし、そんな中でも、「本当にこの子を保護したのがよかったのか?」と悩むような野良の性格の強い子や、「本当に不妊・去勢手術が、この子たちの為になるのか?」という思いで、何年たっても猫の気持ちも分からない自分は駄目なんじゃないかと思います。
    大学院時代の知り合いは、それなりの地位について、研究に励んでいます。私は研究は嫌いではなかったけれど、やはり政治とか甘え上手が幅を利かす社会に、人よりも抜きん出ていたいという気持ちがざわざわぶつかり合う社会にうんざりして、離れてしまいました。そこに意味を見出せなかった自分は馬鹿なのではないか?と思うことがあります。
    意味を見出す-仕事に、研究に、生きることに。それができないから苦しいのかもしれません。

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